日々の雑感:表現者たち

 よく読む雑誌に、内容とは全く別な、でも最近常に漠然とながらも考ええていた事に近いコラムが載っていたので、改めて考えてみました。


 今、技術の発達で表現者に簡単になることができる。しかも人間は表現したがり屋のようで、例えばデジタルカメラで風景・人物など撮って自分のホームページに載せたり投稿したり、本にしたりしている。ビデオカメラも同様で、手軽に撮影でき、学校の入学式・卒業式・運動会などでは、かなりの割合でカメラマンパパが出現してる。

 でも、以前札幌から稚内までこのblogにてリアルタイム更新をしていた旅好きの私が、まったく旅をしていた気分にならなかったのはどうしてだろう。一瞬の景色、車内の様子などをみて、ほかの大多数の時間旅日記更新についやしていたからなのか。多分、そもそも更新を目的として周りを観察していたから、自分が旅の中にいるという感覚が希薄になってしまったのだと思う。

撮影もそうで、カメラを構えた瞬間、その人はその場から消えてしまう。空気みたいな存在になって客観的に物事を見始める。でもそれ自体はやっぱり主観的なんだけど。いい悪いは別にして、友達から「写真撮って」といわれると、何か私の中のスイッチが切り替わる。その場にいたはずの心がなくなって、撮影(技術)に集中し始める。構図はこうで、フラッシュは強制・タイマーは10秒かなと。もちろん撮影が終わるとスイッチが終わるんだけれど、一瞬の空白が心の中に出来上がる。


その場にいると感動するのに、間接的なものを経由すると感動が消える。カメラしかり、取材しかり。


ただ、最初から最後まで道具を持っているのは、また別なのかもしれない。そいういう役割である事を認識して、その上で楽しんで、感動しているのだから。



私が純粋に楽しんでいる時は、一切表現をしたくないし、後で載せる事も無いような気がする。自分の心にだけとっておきたいからね。